No.5

6時に起床、まだ辺りは夜明け前で、空は藍色に見える。上げ下げ窓を開けて、朝の湿気を含んだ冷たい風を吸い込むと目が覚めた。
やがて、藍色はどんどん薄くなり、ロンドンの朝を迎える。そこにはロンドンにいつのまにか好感を持つようになった自分がいた。部屋から向かいのアパートが見える。屋根には蛸壺状の煙突がいくつも突き出て、それが少し曲がっていたりする。愉快な光景だ。 昔はその煙突の数で、裕福度がわかったそうだ。実際これだけの煙突からモコモコ煙が出ていた頃はさぞや煙かったに違いない。
レンガの外壁は、すすで真っ黒くなってしまいそれを洗い落とすのが大変な作業であったという。
50年ほど前にクリンエア・アクト(大気浄化法)が成立してからロンドンの景色が一変したようだ。チムニーは使えなくなり、暖房はガスや電気にとって変わった。クレダ暖房機が活躍するようになったのだろう。今見ると煙突の先端にお皿をひっくり返したような蓋がしてあって、その蓋の周りに穴が開けてある。自然換気をするためだろうか。

さて本日は、午前中は美術館に行き、午後から一流ホテルでアフタヌーンティを楽しむことになった。
日曜の朝は平日と違い閑散としている。滞在しているホテルは日本の銀座にあたるオックスフォード通りから2区画裏に入ったところにある。セイモア・ストリートという通りに面しているのだが、裏通りなのでタクシーを拾いやすい表通りへと歩く。
ロンドンの通りにはそれぞれ名前が付いているので、地図と照合しやすくて便利だ。地図で思い出したが、ロンドンでは、自分の住んでいる所の50年、100年前の地図を本屋さんで簡単に購入できるそうだ。それだけの年月が経っても通りの様子がほとんど変わらないということなのだろうか。
テムズ川沿いに建っているテート・ブリテン(国立美術館)を見学。
絵は、それぞれの見方、感じ方があるのでここでは感想を省略することにする。
印象に残ったことが二つあった。
一つは、日本でも有名な「オフェーリア」を見たこと。
作品のモデルであった少女が絵のように水につかって死んでしまったそうだ。近寄って眺めていると少女の魂に触れ合うようで怖くなった。
もう一つは、松井さんがターナーの絵を見ながら冗談とも本気ともつかない感じで言ったことだ。
「ターナーの絵の特徴は、ミステリアスでファジィであるという点です。いま絵を眺めていたら、インナーサーキットを思い出したんですよ。その効果について、物理的、数値的に説明せよと求める人がいるのですが、それはターナーの絵にそれを求めているような感じです。そもそも、人間はミステリアスでファジィなものに安らぎを覚えるんですね。だから年中、明確で科学的なものに囲まれていたのでは疲れてしまうはずですよね。人は曖昧で、とらえどころのないものに優しく包まれている方が安らげる。母親のお腹の中で羊水に包まれている場合のように」
そう言われて、私は自分の家のことを思い出した。そして、家に帰ってから「この家は、ターナーの雰囲気に囲まれているんだ」と感じるだろう自分を想像しておかしくなってしまった。
次に、世界有数のコレクションを誇る王立の美術館ナショナル・ギャラリーへと向かった。ゴッホのひまわりをはじめとして、モネ、ルノアール、レンブラントなどの作品が展示されていた。

午後からは歩いてホテル巡りをすることになる。
ピカデリー・サーカスが出発点だ。エロスの像の周りを車は行き交い、人も大勢で大変な賑わいぶりであった。ピカデリーストリートを歩くのだが日差しが強すぎて、日陰のある側の通りを行く。
いくつも見た中で特別に印象的だったのはザ・リッツであった。通りからすぐの古めかしい絨毯のひかれた階段を上がる。そこまではふつうに見慣れた感じであったが、ドアを開けて入った瞬間から目に入ってくるものは、まるで別世界のものであった。
1906年にオープンしたようだが、そのあまりにもゴージャスで高級な雰囲気にはすっかり圧倒されてしまった。最高級の上品とはこういうものであるという雰囲気が、さり気なく、しかし丁重に張りつめている。
一段高くなっているコーナーで、上流階級のお手本のような紳士淑女たちがアフタヌーンティを楽しんでいた。ハープの生演奏がさらに優雅な雰囲気を盛り上げて、私には白昼夢さながらの光景に見えた。人々の気品と優雅な身のこなしかたに私はただ見惚れるばかりだった。
その後さらに2カ所のホテルを見てから、最後に有名なグロヴナー・ハウスのアフタヌーンティを楽しんだ。
ホテルへ戻ると会社からファックスが入っており、帰国日に戦後最大の台風が東京を直撃するとの知らせを受けてびっくりする。
松井さんは早速会社と連絡を取ったところ、現場は心配ないから帰国を延期するようにとの工事部長からの心強いアドバイスを受けたので帰国を延期することになった。 |