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エッセイ

80歳からの家づくり

私が60代半ばの頃に、80歳で家を建て替える決心をされたお客様が二組いらして驚いたものだった。

なぜなら、自分がその年まで生きているのか、生きていたらどのような暮らしになるのか、全く想像できなかったからだ。わずか15年後を思い描けなかった。ましてや、一人暮らしになるとは。


「人生100年時代」があっという間にやってきた。

となると、80歳からの住まいのあり方を思い描いておくことは、決して損なことではない。

私の場合、83歳を迎える2か月前に妻に先立たれ、羅針盤を失ってしけに遭遇した船のように漂流することになった。

1年間は食べることに苦労した。介護で疲れ果て、10キロ以上も激やせした体を元に戻そうと、毎週のように美味しいものを求めて名のあるオーベルジュや、都内の一流店を訪ね歩いた。「孤独のグルメ」の井之頭五郎さんのように街歩きもしてみた。

しかし、おいしいものを腹いっぱい食べて体重が回復しても、心の揺れは増すばかりだった。


そんなある日、土井善晴さんの「一汁一菜で良いという提案」(新潮文庫)という本に出合って救われた。

食事は、ご飯とお味噌汁、そして一品おかずがあれば上等。毎回うまくなくてもいい。時にはまずく感じるのもいい。それが家庭料理というもの。

そう教えられ、気が楽になった。これなら、80代は生きていけるという安心感が得られたからだ。

老後を支えてくれるいちばん確かなものと確信できる家に住んでいても、一人暮らしになってみると、「食べる」不安がある限り住み心地に満足できなくなる、という当たり前が分かっていなかった。

「一汁一菜で良いという提案」を得て、一人暮らしに自信が持て、私は家づくりの神髄に目覚めさせられた。言い換えると、「住む楽しみ」に目覚めたのである。

それは、これからの私にとって一番の支えとなるものであり、亡き妻がくれた最高のプレゼントなのだと気付かされた。


わが家は、このところの寒さにも拘わらず、家の中はどこも暖かく空気が気持ち良い。共に暮らしている愛猫も満足そうだ。

庭の花を眺めながらのコーヒータイムにお客様のことをよく思い浮かべる。今日は、80歳で家づくりをされたお客様方のことを。

みなさんが「老後を支えてくれるいちばん確かなもの」それは住み心地なのだと共感してくださっているに違いない。それぞれのご夫妻の笑顔が思い出されて、「この家に住んで本当に幸せだなぁ」と、愛猫に相槌を求めていた。