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エッセイ

遺品の処分

百箇日の法事が終わって、妻の無二の親友だった方から言われた。

「もう、悲しむのは今日までにして、明日からはご自分の人生を悔いのないように生きてください」と。


そう言われて、遺品の整理にとりかかってみたのだが、あまりの数の多さに私はすっかりたじろいでしまった。

ネットで調べると、トラック一杯でいくらという見積もりで、そっくり処分してくれる業者がいくつもあると分かった。

今は、子供たちさえも親の遺品の処分に手を焼いて業者に依頼するケースが急増しているという。

「そうだよな。55年連れ添った私ですら困惑しているのに、子供たちがやれるわけないよなぁ」。

そんなことをつぶやきながらどこから手を付けたらよいものか、数日は迷っていた。


80歳を過ぎると多くの人は、気力・体力そして決断力が萎える。そうなると、一番厄介なのは遺品の片づけだろう。

妻はガンと告知を受けてから、何度も片づけに取り掛かっていたが、思うように頭も体も動いてくれないと嘆いていた。

そして、「ごめんなさい。私が死んだら、私のものはすべて処分してください」と言い残した。


しかし、いざとなると、その言葉どおりにはできないものだ。

遺品の扱いに関して、考えを述べる人は実に多い。週刊誌もちょくちょく取り上げている。

だが、83歳で一人暮らしになった者にとって、参考になる意見は極めて少ないことに気付かされた。

それはそうだろう。身の回りの整理・整頓(断捨離ともいう)と、83歳の独居老人がやろうとしている遺品の処分とは、動機も思い出の重さも違い過ぎている。

そんなこともつぶやきながら、さらに一週間ほどが過ぎて、ようやく私は決断した。

妻の望みどおり、全てを処分すると。二つのガラスケースに飾ってあった豚の飾り物は、親友の方に差し上げ、思い出の写真を3枚厳選して、体力の衰えを痛感しながらも残りの物は業者がくれた段ボール箱に納めた。

妻のタンスを3竿とドレッサー、そして靴も処分し、浴室やトイレの掃除道具、タオル類も一新した。


しかし、妻の遺品の処分が終わっても私の気分は塞がったままだった。

キッチン周りが手つかずのままだったからだ。

食器を見るたびに、妻が料理に掛けた特別のこだわりが思い出されてならなかった。

長野県戸隠の農家に生まれて、育ち盛りの頃、おかずは漬物だけの日が多かったという。結婚したら、食卓に手作りの料理を一品でも多く並べたい。そんなこだわりが必要とした食器や調理器具、そして私のためにと揃えた皿や器には、煮びたしや天ぷら、大根・里芋の煮物、魚の煮つけなどが盛りつけられていた思い出が一杯あった。


また三日ほど迷って、身を切るような思いで決断した。

思い出や感傷を絶って、当面必要なものだけを残してすべて処分すると。

押し入れ、納戸、吊り戸、キッチンセットの下の引き出しにもたくさん仕舞われていた。残すものは、ごはん茶碗とお椀、箸とスプーン・フォークを2個ずつと決めて、45リットルサイズのビニール袋3つ分を処分した。

その他、大型の鍋、フライパン、電気プレートなども。


家の中から、妻の思い出の物すべてが無くなって数日は放心状態になったが、その環境に目が慣れてからだった。

「さあ、これからが私の第二の人生の始まりだ」と覚悟が決まったのは。


私は妻の遺影に向かって、「ありがとう、なつ子」と言った。その瞬間に涙があふれ出て止まらなくなった。

驚いたように愛猫は身を固くして、「どうしたの?ボクも捨てるつもり?」と私を見つめた。

それから半年もしないで、私は彼を手放すことになるのだが、その顛末を次回に書いてみたい。