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松井祐三の「外断熱」物語

第一部 父の子育て

生まれは

私は、一九六九年九月にマツミハウジング株式会社の創業者である松井修三の三男として生まれた。

兄弟は男ばかり四人で、長男は三つ上、次男と私は年子で、四男は二つ離れている。その当時、四人兄弟は珍しく近所中で有名で、どこへ出かけても目立つ存在だった。大人は、私を見ると必ず同じ質問をした。

「君は何番目なの?」と。

そして、次にまた同じことを言うのだった。

「ああ、だから祐三なんだ」

名前を付けてくれたのは祖父で、物心ついて名前の由来を尋ねたいと思ったときは亡くなっていたので残念に思っている。ちなみに私の父は長男ではあるが修三という名前で、その理由は定かではないと言う。

生まれた家は東京都東大和市の二DKの借家で、四歳の時に小平市に引っ越した。部屋数が四部屋ほどの古い木造平屋の家で、そのうちの二部屋は事務所に用いられた。

引越しをしてすぐに事務所をつくるための改修工事が始まった。

それは幼心にもおもしろくて、十七年後に、マツミハウジングに入社し建築の仕事に携わるようになるとは夢にも知らず、大工さんや職人さんたちの仕事を毎日楽しみに眺めていた。

しもやけと石油ストーブ

当時の家を思い出すと、しもやけと石油ストーブとの格闘が真っ先に浮かんでくる。しもやけは、毎日、薬を足の指に丹念にすり込むのだが一向に治らず、毎晩寝床に入って両足をこすり合わせていた。

冬の朝は、起きるとまっさきに大型の石油ストーブに火をつけるのが日課だった。ステンレスで作られた格子状の囲いを外し、頭が丸くて網目のような円形の燃焼筒を持ち上げ、石油を吸っている芯にマッチで点火する。

着火したとたんに「ボッ」と出る音が怖く、燃焼筒がうまく納まらないことがたびたびあった。すると、嫌な臭いのする黒煙がもくもくと出て、兄たちから「へたくそっ!」となじられた。

母は食事の支度で忙しく、父は早朝から事務所で仕事をしていたので作業は子供の担当だった。


石油ストーブのことでもうひとつ忘れられない思い出は、タンクに灯油を入れる作業だ。

この作業は、兄弟二人ずつ交代で行っていた。

ストーブ本体の上部のフタを開き、中からタンクを取り出すと口元から灯油が垂れるので、専用の雑巾を使い口元を押さえながら勝手口まで運ぶ。外の土間にポリタンクが置いてあり、その脇に手動のポンプがあった。それを我々は「シュポシュポ」と呼んでいた。握るたびにそのような音がしたからである。

寒さに震えながら灯油を入れ終わると、再びタンクをストーブのところまで運ぶのだが、どんなに手早く上手にやり終えても灯油の臭いが手についた。

冷たい水で急いで洗うのでよく落とすことができず、灯油の臭いを嗅ぎながら食べた朝ごはんが今も思い出される。

母の実家

母の実家は、長野県戸隠村である。

庭から戸隠山が見え、目の前に上楠川が流れ、平地には畑があり、ちょっと山に入れば熊や猿とも遭遇するというところである。家は、百年以上昔に建てられたという茅葺の二階屋だった。

冬は、ビール瓶を室内に放置しておくと凍って破裂してしまうので冷蔵庫の中に入れなければならないぐらい寒かった。夏は涼しく、曇った日だと日中でも肌寒く感じるときがある。

父は訪ねるたびに、集落が一望できる橋の上に車を止めて、母の故郷の風景を一時眺めるのが習慣になっていた。

その夏、集落の風景は一変して見えた。父の驚きは、子供たちにもすぐ分かった。茅葺の屋根が、青色のトタン葺きに変わってしまっていたのだ。

「残念だなー」と父は呻くように言った。

子供たちも一様に残念がったが、母は黙っていた。

家に入って、挨拶もそこそこに私は尋ねた。

「おじいちゃん、どうして屋根を変えてしまったの?」

笑顔で黙っていた祖父に代わって祖母が答えた。

「茅葺は手入れがたいへんなんだよ。最近では職人さんもいなくなってしまってね」

「何で大変なの?」

私の質問に祖父は、茅葺の造り方、手入れの仕方について教えてくれた。

そして、こんなことを言った。

「屋根もそうだが、こういう古い家は手入れしてやらないとすぐダメになってしまうのだよ。百年以上長持ちしてきたのは、ご先祖様が一生懸命に大切にしてきたからなんだ。でも、茅葺をこれ以上維持し続けるのは残念ながらじいちゃんには無理になったよ」

そして、私の聞く姿勢がそう思わせたのか、後になって祖父は母に言ったそうである。

「祐三は、いずれ会社に入って家造りに携わるようになるような気がする」と。


田舎から自宅に戻ってくると、いつも感じることがあった。ムワーッとした不快な暑さと、カビの臭いである。しばらくすると、喉がいがらっぽくなったり鼻がかゆくなるような感じがした。

下駄箱の隅にしまっておいた野球のグローブを取り出すと、白い粉がついていた。母に聞くと、それはカビだという。二週間も留守にすると、革製品にカビが発生するのが当たり前の家だったのだ。

雨漏り

人生で、最初の雨漏りを体験したのは小学一年の時だった。

台風が接近していて、雨と風が強まっている最中に晩ごはんを食べていた。テーブルの中央に、大好物の鶏の唐揚げがあった。さあ食べようと箸を伸ばした瞬間に、天井からぴゅーっと一筋の雨水が勢いよく落ちてきた。水しぶきが上がり、家族は大騒ぎになった。その様子は、当時テレビで人気だったドリフターズのコントを見ているかのようだった。

父は大慌てで風呂場から洗面器を持ってきたが、雨漏りは他の箇所からも始まり、母は鍋を持ち出し、二人の兄にも鍋を持たせ、そして私と弟は茶碗で受ける羽目になった。

台所が狭いので、テーブルを動かすことができない。とにかく食事を済ませてしまおうと言うことになったが、唐揚げはびしょぬれになって食べられなくなってしまった。でも子供たちは、すっかりはしゃいで雨漏りを楽しみながら食事をした。

はじめての持家

そんな平屋の家に六年間暮らして、十歳のときに歩いて十五分ほど離れたところにある二階建てで築二十年ほどの中古住宅へ引っ越した。

四メートル道路の突き当たりに近いところから旗状の通路を入ると、植木が何本もある広い庭があった。五十坪ほどの広さなのだが、当時の私の目には感動的に広く感じられた。

もっとも、西側に隣接する大地主さんの広大な庭も景色として見ていたからかもしれない。

引越しの朝、母が弾んだ声で子供たちを起こした。

「さあ、おまえたち、今日から持家に住めるのよ!」

「もちやって?」と、だれかが聞いた。

「今まで住んできた家はね、どれも借りていたのよ。今度の家は、中古だけど自分たちのものなの。もちやってね、自分の家ってこと」

私は、母の喜びに共感して飛び起きた。


その家は、木造二階建てで、外壁はモルタル塗り。そして鉄骨のちょっと広めのベランダがついていた。一階には六畳の広さのダイニングキッチンと六畳の和室と洋室、そしてトイレ、洗面所と浴室があった。二階には六畳が三部屋で、部屋数は合計五つあった。平屋の家は実質的に二部屋、十四畳しかなかったのが、今度は一挙に倍以上の広さになった。家族一人当たりの畳の数が、二・三から五にも急増した。

そして何よりもありがたかったのは、トイレが汲み取り式から水洗に変わったことだった。

両親は一階の和室を寝室として使い、洋間は父の書斎になった。二階は兄弟四人ですべて使い、南西の角部屋を寝室にし、前の家と同様に二段ベッドを二つ並べて置いた。残りの二部屋の対角線上に二つの机が置かれ、兄弟は二名ずつに分かれて使うことになった。


我々兄弟はベランダで遊んで間もなく、T型をした物干しに足をかけると、簡単に屋根に上がれることを発見した。

平らな構造をした鉄板葺きの陸屋根で、落下の危険はあったが我々にとっては格好の遊び場となった。

そこから見る景色は抜群で、富士山も見ることができた。

「ここは屋上だ」

長男は、大空に両手を突き上げ誇らしげに叫んだ。

以来、我々はそこを「屋上」と名付けて、両親が出かけると上っては様々な遊びに熱中した。今思えば、転落の恐れがある危険な場所だった。

まるで星空の下

引っ越しをしたのは、梅雨明けの直前だった。

梅雨が明けたとたんに、兄弟が同じことに気がついた。階段を上がっていくと、途中から急に暑くなることに。私にあてがわれたのは東南の角部屋だったので、特別に暑く感じられた。

夜寝ると二段ベッドの中は熱がこもっていて寝つきが悪くなった。寝返りを打つ回数が増えて、転落防止の柵に足をぶつけ、その音と痛みで目を覚ますことがたびたびあった。

夜中に、父が階段を駆け上がってきて、「だれだ? こんな夜中にドタバタやっているのは!」とすごい剣幕で怒ったのだが、誰も返事が出来なかった。

楽しみだった屋上の遊びは中止になった。なぜなら、日中は屋根の鉄板が熱せられて火傷してしまうような熱さになるからだ。

食事のときに父に尋ねたことがあった。

「どうして僕らの部屋はあんなに暑いの?」と。

すると父は言った。

「何せ屋根が薄い鉄板だから仕方ないさ。鉄は、熱しやすく、冷めやすい。

まあ、子供は汗をかくくらいが健康に良い」

すると母が言った。

「でも、暑さが異常ですよ。あれではかわいそうです」

その一言があって、二段ベッドは解体処分され、子供たちは畳に布団を敷いて寝ることになった。天井からの輻射熱から遠ざかった分だけ暑さが緩和されたが、それでも汗だくで寝ていた。


冬の寒さも半端ではなかった。以前の平屋の家より寒く感じた。鉄板葺きの陸屋根は放射冷却現象でどんどん冷えてしまうからである。まるで星空の下で寝ているかのように冷えるのだった。

吐く息が白く見える日があると、兄弟四人は白い輪を作って寝る前のひと時を楽しんだものである。

幸せをもたらす魔法使い

翌年の五月の連休が終わったある日、学校から帰ると母が興奮気味に言った。

「二階の天井に断熱材を入れてくれるのですって。今度の夏からはぐっすり眠れるようになるよ。冬も暖かくなるし良かったね」

「暑くなくなるの?」

「そうなのよ。二階の天井全部に入れるそうだから。断熱材は、太陽の熱を防ぎ、室内の熱を逃がさない働きをするのよ」

母は、父から聞いた説明を受け売りしていたのだが、その様子があまりにもうれしそうなので子供たちにとって断熱材は、幸せをもたらす魔法使いのように思えた。

数日後、年配の大工さんが小型トラックにビニールに包まれた太い筒状のものを山盛りに積んでやってきた。大工さんがそれをカッターナイフで破ると、中から薄黄色をしたグラスウール断熱材が出てきた。

大工さんは、両手に抱え込んでは二階へ上がっていき、押入れの天袋の上から小屋裏へと持ち上げた。綿と同じように軽いものだったので、私も同じように抱えて手伝いをした。

それを見た大工さんはあわてたように、「坊や、手伝わなくていいんだ。おじさんがやるから君は外へ行って遊んでおいで」と言った。

私はすごくがっかりした。われわれ家族の期待がかかった魔法の断熱材入れを手伝わせてもらえないのだから。しかし後になって、大工さんの言葉の意味を知ってぞっとした。

その日夕食時に、父は断熱材の効果について話してくれた。当時の父の仕事は、不動産の仲介が主で、スポンサーからの依頼で年間数棟の建売住宅を企画販売していた。

父は、「これからは断熱効果が高い家でないと買ってもらえない」と言った。すると長男が、「お父さんは、この家に断熱材が入っていないのを知らないで買ったの?」と質問した。

それから二〇年後の一九九九年に、父は断熱の大切さについて本を書くに至るのだが、当時はその程度の知識しかなかったようだ。

母の失望

梅雨が明けて、断熱材を入れた夏を迎えると、わが家にはショックが走った。

暑さが、前の夏と比べてほとんど変わらなかったからである。いや、涼しくなると期待した分だけ余計に暑く感じられた。

「そんなバカなことはないだろう」と、父と母とで検証したが子供たちの感受性は間違っていなかったことを認めざるを得なかった。そこで父は、みんなの見ている前で押入れを開け、大工さんと同じようにして小屋裏へ上がった。

「間違いなく、断熱材は入っている」

父の声に、子供たちはすぐに反応した。

「それなのに、何で涼しくならないの?」と。

母は、すごくがっかりした様子だったが、持ち前の明るさをすぐ取り戻して宣言した。

「今年の夏はすぐ終わる」と。


冬になった。

寒さも相変わらずだった。もう誰も断熱材のことには触れなくなった。

それよりも大問題が発見された。父が、台所の床が北側に傾いている感じがすると言い出したのだ。

父は、ピンポン玉を床に置いた。母も子供たちも固唾を飲んでその動きを見守った。ピンポン玉は次第に勢いを増して転がっていき、北側にあるキッチンセットにぶつかった。

みんなが一斉に声を出した。

「傾いている!」と。

母が言った。

「そうか。どうりで目玉焼きの黄身が片側へ寄ってしまうわけね」

すると二番目の兄が言った。

「僕の机では、丸鉛筆が転がるよ」

「それは本当か?」

父は、あわてて二階へ上がって行き、その後をみんなで追った。

「うへーっ、確かに転がる」

父が叫んだ。

その言葉の響きから、私はすぐにでも家が倒壊してしまうのかと心配した。

「この家、倒れちゃうの?」

一番上の兄が、

「バカ言え。そんなに簡単に家が倒れるか!」と大声で言った。

「この程度の傾きなら、どうということはないでしょう」

母のいつもの陽気な声で、一挙に緊張が和らいだ。

傾く家

数日後に、前に来た年配の大工さんがやってきて台所の床の一部に四十センチ角ぐらいの穴を開けた。

そこから、大工さんが慣れた様子で床下を覗いたのだが、しばらくすると「やっぱりなー」とつぶやく声が聞こえた。

「まあ、見てください」と、大工さんは懐中電灯を父に手渡した。

覗くやいなや父が叫んだ。

「うわーっ、これはひどい状態だ」

私は、父の手から懐中電灯をもぎ取るようにして「僕にも見せて」と頼んだ。そして大人がやったと同じように床に腹ばいになって中を覗いた。

真っ先に、冷たい風と嫌な臭いを感じた。床下はでこぼこした土がむき出しになって木屑やごみが散乱していた。いつも食事をしているテーブルの下が、あまりにも湿っぽく、汚らしいところであったことに私はショックを受けた。


大工さんは、外側からも点検する必要があると言って表に出た。

北側に回り台所の壁の一部を金槌で叩きながら壊し始めた。ここに問題が隠されていると確信しているかのようだった。やがて、半分朽ちかけた土台が姿を現した。

「シロアリにやられてますね」と大工さんが言った。

「シロアリですか」

父は、驚いたようだった。

「ねえ、シロアリってなーに?」

母の制止を無視して塀の上によじ登って見ていた私は大工さんに質問した。

「こういうふうに、木を食べるアリがいるんだよ。ほっておくと、家中が食べられてしまうんだ」

そう言って大工さんは、今度は北西の角の壁を叩き出した。

「ありゃーあ、柱がない!」

土台の高さから上に向かってモルタルの外壁を壊していくのだが、柱が姿を現さないのだ。

大工さんは身長と同じぐらいの高さまで壊してから、いかにも気の毒だという様子で「通し柱がすっかり食われちまってますよ。これでは家が傾くのも無理がない」と言った。

私は、父の顔を窺った。

どうするのだろうか?

この家には住めなくなってしまうのだろうか?

父が下した結論は、とりあえずダメな部分を補修するというものだった。

その夜、私は、実際には見たことがない巨大なシロアリに襲われて逃げ回る夢を見た。

屋根の上のプール

自宅の屋根は、陸屋根といって勾配が緩やかで周囲に低い立ち上がり(パラペット)があって、ちょうど底の浅い鍋のような形をしていた。

樋は四隅の内側に設けられているので、落ち葉や土埃などで詰まってしまうと雨水はプールのように溜まってしまう。

ある朝に大雨が降って四ヵ所の穴が同時に詰まるという偶然が、またもや雨漏り騒動をもたらした。前の家では台所の天井からだけだったが、今度は家中の天井から勢いよく漏れ出したのである。

家族全員が、あっちだ、こっちだとバケツや洗面器や鍋を手にして走り回ったのだが、どうにも対処が間に合わない。

一階から父が叫ぶ声が聞こえてきた。

「屋根だ。屋根に上がれ!」

そのとき、私は中学生でバレーボールの選手をしており、二番目の兄も陸上競技を得意としていた。

二人はベランダに飛び出し、物干しによじ登りあっという間に屋根に上がった。そこに見たのは正にプールだった。二人は手分けして四隅の樋の穴を目指して進んだ。穴は屋根の先端にあるので、手探りすると下が見えて怖くなる。

ようやく穴を探り当て詰まっているものをつまみ出すのだが、限界まで手を入れても水が吐けない。二番目の兄も同じなので突っつくものを取りに行った。その間、雨に打たれながらしゃがんで待っていた。気づいてみると尻は水の中に浸かってびしょぬれになっていた。

やがて父と兄が棒を持って戻ってきた。三人の懸命な努力の甲斐があって、音を立てて雨水が流れ出し、見る見るうちに水かさが減っていった。

意気揚々と家の中に戻ると、母と長男と弟が床を雑巾がけをしながら這いまわっていた。

グラスウール断熱材

ある日、高校二年になっていた二番目の兄が得意そうに言った。

「今日は父さんに頼まれて現場で断熱材を入れるのを手伝ってきた」と。

その頃は、父は不動産業ではなく建築業を主にしていた。私は、一度現場へ連れて行って欲しいと思っていたので、その話はとてもうらやましいものだった。

大工さんと同じように小屋裏へ上がって仕事をしたというのだからなおそう思った。

夕食のとき、父が兄に向かって尋ねた。

「皮膚がかゆくないか?」と。

兄は、腕がかゆいと答えた。

「ほら、よく見てごらん。このせいだよ」と父が腕を突き出した。

母と、兄弟が目を近づけていっせいに言った。

「うわーっ、なに、それっ?」

父が答えた。

「ガラスのトゲだよ」

「トゲ?!」

みんな絶句した。

「よくないことを手伝わせてしまった」

父のすまなさそうな言葉を聞いたとたん、私は小学生のときに大工さんの手伝いをしたときのことを思い出した。

さぞかし大工さんに喜ばれると思ったら、意外なことに、大工さんは手伝ってはならないという感じで断った。あの大工さんは、ガラスのとげが刺さることを知っていたのだ。

母が心配そうに「このままほっておいて大丈夫なのかしら?」と尋ねると、父の答えは自信がないようだった。

「私も心配でメーカーに尋ねてみたのだが、何も心配はないと言うのだよ。人間の皮膚は、異物を外に出してしまおうとする働きをするそうだ。しかし、大工さんのように長年グラスウールを使うのは健康に良くないと思う」

すると二番目の兄は、腕をさすって見せて、

「こんなもの、どうということないさ。足に釘を刺したことに比べたら、屁でもないよ」と笑ったのだが、他の三人の兄弟はだれも笑わなかった。

危険な実験

ある日、学校から帰って玄関を入ると、家の中が騒がしかった。

母が弟に向かって、「早くお風呂に入ってシャワーを浴びなさい!」と叫ぶのが聞こえた。

父があわてて二階へ上がっていったので、私もついて行った。すると長男が血に染まったティッシュペーパーを鼻に詰めてベッドに横たわっていた。

押入れの前に脚立が立っていて天井が開かれており、床にグラスウール断熱材が散乱していた。

私は、父が兄弟に手伝わせて断熱強化を図ろうとしたのだと察した。

しかし、グラスウールは健康に良くないと分かっていて、何でそんなことをするのだろうかとひどく疑問に思った。

私の表情を察して、父は釈明するかのように言った。

「やはり、グラスウールは良くない」

「そんなこと、分かっているじゃないか!」

私はなじるように言った。

「ああ。分かっている。だがしかし、ガラス繊維協会は健康に何ら問題はないと言い張っているのだ。だから……」

父はそこまで言って口をつぐんだ。

「人間モルモットだよ」

兄が笑って言った。そして弟の肌が真っ赤にはれ上がってしまったことも教えてくれた。

何事も試さないことには納得しないのが父の性格であることを、長男は一番良く知っていたようだ。

それから二年後に、父は「健康住宅造りへの提言」という小冊子を出版し、グラスウール断熱材の問題点を鋭く指摘するとともに、「外断熱」による家造りを提言したのである。

父の子育て

私が中学に入学した年に、長男は高校に入学した。

入学式が終わった夜、父は息子たちを集めてこんな話をした。

「父さんは大学に行ったが、四年間ほとんど勉強をしないで卒業した。振り返ってみればおじいちゃん、おばあちゃんに申し訳ないことをしたと思う。

お前たちは、本当に勉強したいのであれば大学に行くがよい。だが、勉強が嫌い、したくないというのであれば行かないことだ。大学に行く場合には入学金だけは用意するが月謝は自分で働いて払いなさい。

大学に行かないというのであれば、高校を卒業したら一年間、必要なお金は用意するから好きなことに挑戦してみるといい。外国に行くのもよい。専門学校に行くのもよい。遊びほうけてもよい。しかし、一年が過ぎたら自分で仕事を見つけて働きなさい」


我々兄弟は、寝床に入ってから話し合った。

次男が言った。

「俺は、大学には行かない。バイクに乗って旅に出る」と。

長男がつぶやいた。

「あれでは、大学へは行くなといっているようなものだ」と。

私は、大学などはまだずっと先のことに思え、考えが浮かばなかった。

小学生の四男は眠ってしまった。

結局、大学へ行ったのはその四男だけだった。