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松井祐三の「外断熱」物語

第二部 就職

就職

高校を卒業して、父から与えられた1年間のフリータイムを私はカナダにある建築の専門学校で過した。

帰国すると、父との約束どおり働きに出ることにした。

木造住宅の設計に携わりたかったので、新聞や雑誌の求人広告を見ては毎日のように訪ね歩いたが、イメージしていたような就職先は見つからなかった。

そのときすでに長男は、コンピューターのソフトを製作する会社に就職し、次男は父の会社で働いており、四男は大学受験を目指していた。

三男である私は少々あせりを感じ、ある日父に言った。

「会社が忙しそうだから、手伝ってやってもいいよ」と。

喜ぶと思っていた父は、意外な反応をした。

「手伝ってやる?

生意気なことを言うな。会社で働きたければ、ぜひとも働かせてくださいと言えるようになるまで、よそで働いてくることだ」

私は、その言葉に反抗心を燃え立たせ、どんなに頼まれても働いてはやるまいと決心した。そして不本意ながら、鉄筋コンクリートのマンションやカプセルホテルの意匠設計を行う設計事務所に就職することにした。


その設計事務所は、5階建ての古いマンションの2階にあり、2LDKの部屋を仕事場に改装してあった。玄関は薄暗く、部屋に入るとタバコとコーヒーの臭いが充満していた。私はそこで、朝の8時から夜の8時過ぎまで、昼休み以外は一歩も外へ出ずに働くことになった。

ちょうど経済はバブルの最盛期だったので仕事は多忙を極めていた。その会社が得意とするのは、土地の最有効活用方法の提案だった。

上司は、このように命じた。

「最も重要なことは、一つでも多くの部屋を確保することにある。そのためには、ユニットバスやキッチンセット、便器、洗面台、洗濯機を置く防水パンなど、なんでもいいからとにかく一番安くて一番小さな物を探して図面化することだ。そのためのアシスタントが君の役割だよ」と。


ひと月もたたないうちに、その会社が業界でどのような立場にあるのかを理解することができた。

意匠設計が専門で、それは建物の設計の中では一番権威のある分野とされていた。設計業務には、意匠(デザイン)の他に構造や設備があるが、意匠はそれらの頂点に立つものであることを知った。

建築の先生といえば意匠設計に携わる建築士のことだけをいうということも教わった。意匠がすべてに優先し、構造や設備は決められた枠組みの中で考えていればよいというわけだ。

だから、私のような見習いの若造であっても、現場に行くと一目置かれた扱いを受けた。

私は、いつか「先生」と呼ばれる自分を想像し、張りきって働いた。

新築マンションの「幸福の証」とは?

完成間際の新築ワンルームマンションに、竣工検査のために上司とよく出かけるようになった。ワンルームをはじめて見たときは興奮した。

タイルと大理石張りの豪華なエントランス、オートロックの自動ドア、エレベーターに圧倒されてから部屋に入る。

こぢんまりとして、快適に過せそうだった。

「こんな部屋に住めたらなー」とため息が出た。

しかし、部屋に入ったときから鼻にツーンとくる刺激臭が気になりだした。

30歳半ばの上司は、それを新築のにおいだと説明し、

「このにおいを嗅ぐときが、仕事をしていていちばん幸せに感じる瞬間なのだ」と、うれしそうに言った。

いま思えば、その臭いにはホルムアルデヒドやトルエンなどの揮発性有機化合物が含まれていたことは間違いないと思う。その後10年ほどして建築基準法が改正され、ホルムアルデヒドが規制されるようになったのだが、当時その設計事務所では話題にも上っていなかった。

それどころか、タバコも仕事の能率とコミュニケーションを高めるために欠くことのできないものとして扱われていた。狭い事務所の内部には、常にタバコの煙が漂い、来客があると煙の濃度は一段と増すのだった。

安く、早く、簡単に

勤めて半年ほどが過ぎたある日、私は、図面を手に上司に相談した。

「このプランですが、ここのところをこのように変えてみたら、住む人にもっと喜ばれると思うのですが」と。

上司は、笑って答えた。

「住む人? あのねぇ、どんなに住む人に喜んでもらえても、オーナーさんに喜んでもらえなかったら、何にもならないんだよ。我々の仕事はね、住む人が適当に不満であるように設計することで評価されるんだよ。だって、入居者に長居されたのでは、回転率が悪くなってしまう。つまり、儲からなくなってしまうということだ。そこのところを、君はまだわかっていないな」

私は、ガツンと頭を殴られた思いがした。

そうか。設計事務所と施工会社はオーナーから仕事をもらい、オーナーの利益のために仕事をする。住む人に喜んでもらうためには、誰も仕事をしない。

しかし、父の会社は「住まいとは幸せの器である。住む人の幸せを心から願うものでなければ住まい造りに携わってはならない」という信条を掲げていた。

何たる違いなのだろうか。

私が垣間見たマンション業界は、住む人の幸せを願うという考えはなく、いかにして安く、早く、簡単に造るかばかりを競い合っていた。総タイル張りの外観は、豪華で、華やかで、一度は住んでみたいところに見える。

しかし、冬になれば窓ガラスに結露は当たり前。北側に面した洗面所やトイレの壁にも結露が生じ、入居後すぐに壁紙が剥がれてしまったというようなクレームがよくある。

設計士は何も改善を考えず、キッチンやトイレの換気扇を回し、それでもダメなら除湿機を使え、と答えるだけだ。

建てさえすれば売れ、賃貸物件は利回りの良さを競い合って引っ張りだこの時代であった。

突然の体調不良

それから半年が過ぎた日の昼食時に、私の身体に異変が起きた。

食事がどうしても喉を通らず、めまいがし、動悸や息切れが始まった。疲労からきた一時的なことと思って様子を見ることにしたが、日増しに体調が悪くなる一方だった。

満員電車に乗るだけでも気分が悪くなってしまうので急行に乗るのは止め、各駅停車で通勤するようにした。次第に体重が減少し、顔色が悪くなり、空咳が止まらず、血尿が出るようになって病院へ行った。

尿や血液を検査し、レントゲンやCTスキャンも受けたのだが、医師は原因がよく分からない、たぶん自律神経の失調によると思われるので、なるべくストレスをためないようにして、1週間に一度通院するようにと言った。

しかし、3ヵ月ほど通院し続けても症状は一向に改善されず、それどころか竣工検査に立ち会った日は特に具合が悪くなった。

事務所に戻ると、吐き気に襲われることが多くなった。私の机の周辺が空気だまりのようになっており、コンクリート打ちっ放しの壁のコーナー部分はカビとタバコの煙で変色していた。

当時、シックハウス問題は、住居に関しては一部で騒がれていたが、職場環境に関してはほとんど無関心であり、もしそのような苦情を会社に申し立てたとしたらすぐに解雇されていただろう。

私の体は、解雇される前に通勤できない状態になってしまい、辞めざるを得なくなった。

兄の旅立ち

仕事を辞めたことを、現場監督として父の会社で働いていた二番目の兄に話すと、父には内緒だと前置きしてからこんな相談をしてきた。

「オレは、家造りの仕事は適していないと思うんだ。だって、ミリ単位の精度を求められると息苦しくなっちゃうんだ。柱と壁のわずかな隙間、ほんの少しの床の傷、柱や土台のちょっとしたひび割れ、そりなどを気にする世界よりも、畑仕事とか牧場で牛や馬の世話をしている方が自分には合っていると思うんだよ。だから、会社を辞めたいんだけど、代わりがいない。お前が代わってくれると助かるんだ」

兄は、高校を卒業して1年間は、バイクに乗って山梨県や長野県の農家を回ってアルバイトをしていた。たまに、見渡すかぎりのキャベツ畑を背景にしたり、籠いっぱいの高原野菜を運んでいる写真を送ってよこしていた。

その話を聞いたとき、私は体調が悪すぎたのと、父の仕事は手伝わないという意地もあって、とくに返事をしなかった。


ところがそれから10日ほど後に、兄は誰にも言わずバイクに乗って放浪の旅に出てしまった。

父と母は、口には出さなかったが後継者と期待していた息子が突然行方不明になってしまい、大変なショックを受けたはずである。

数日後、私は自転車に乗って、兄から聞いていた工事中の現場を見に行った。

前に小型トラックが止まっていて、作業着を着た人が残材やゴミを懸命に積み上げていた。

なんと、父であった。

そのことに気づいた私は、思わず素通りしてしまったのだが、「何で手伝おうとしなかったのか」という自責の念が沸き起こった。


その夜、私は父に申し出た。

「兄の代わりに働かせてください」と。

父はしばらく無言だったが、やがてこう言った。

「条件が二つある。一つは、仕事場に親子関係は一切持ち込んではならない。公私混同は許さないということだ。二つは、どんなに辛かろうと辞めない。それを約束できるなら、明日から出社することだ」